建築学科から広がる道 小室舞 [建築デザインスタジオKOMPAS主宰]

小室舞さんは京都から東京へ、そしてスイス、香港と拠点を変えつつ30代前半で海外に事務所を構えるという誰とも重ならないキャリアを、力強く、迷わず切り開いている様に見えます。複数の岐路があった中でどのように進路を決められてきたのかお話を伺いました。お話の中で見えてきたのは“体育会系”で培われた現実を見据えた決断力という意外な一面でした。

京都大学で造形力を、東京大学でリサーチを学ぶ

—— まずは、建築という道を選んで京都大学に進んだ背景を教えてください。

小室——  それがあまり夢の無い話で、昔から工作的なことが好きな一方で、親戚一同理系ばかりの環境だったので「理系に進むのが当然」 という感覚があり、 建築なら理系でかつ物作りだから自分に合いそうな気がして、建築学科に進みました。地元が神戸で阪神大震災のときに実家が全壊したのとかも長期的には影響してるかもしれませんが、正直それはそれという感じであまり意識にはありませんでした。

—— では建築というものにのめりこんだのは、入学してからですか?

小室——  建築が面白く感じ始めたのは設計課題をやりだしてからです。特に最初の1回生課題を担当していた高松伸先生の指導はインパクトが大きく、そこから設計が楽しくなりました。設計課題のTA(ティーチング・アシスタント)で来ていた高松研究室の先輩と仲良くなったこともあり、高松研らしい迫力ある模型や手描きの鉛筆ドローイングに影響されていました。まわりがPCを使って課題に取り組み始める中で、私は最後の方まで手描きでドローイングを続けていました。

—— その後、大学院で東大に進み、さらにETH留学へと軸足を移していかれたきっかけとは?

小室——  4回生になる直前の春休みに 、はじまったばかりの全国卒業設計コンクール「せんだいデザインリーグ」を見に行ったことが大きなきっかけでした。それまで自分が京大で見て学んできた建築の評価軸を越えた多くの作品を見て、全国には自分の知らない考え方や評価軸がたくさん存在することを感じました。このまま京大にいては見える世界や考え方が狭くなってしまうような気がして、自分でも予想外でしたが、関西人としては異国ともいえる東京にさえ出てみようかと考えるに至りました。

—— 東京大学の大学院はいかがでしたか?

小室——  やはり違いましたね。京大の教育は造形力など建築重視の感がありましたが、東大で在籍した千葉学先生の研究室では都市リサーチなども行われていて、新鮮でおもしろかったです。千葉先生には関西から来た変なヤツくらいに思われてたと思いますが(笑)。おかげで都市を観察する目やそのリサーチを設計に活かす方法論などを身につけることができたと思います。

—— 手法が違うんですね。京大建築の造形力重視の手法は役立ちましたか?

小室——  京大の「モノで勝負する感じ」というのは、特に海外で生きたと思います。海外では言葉をうまく使いきれないこともあり、手を動かして作った模型やビジュアルなどのアウトプットが伝わりやすかったので。学部が京大でなかったら、海外でもっと苦労していたかもしれません。そういう意味では、手の動く学生は海外での設計活動に向いていると思います。

環境が気に入ったから、スイスで就職

—— 留学を意識されたのはいつ頃ですか?

小室——  もともと学生時代から休みのたびに海外旅行に行くくらい旅行が好きで、漠然といつか留学したいとは思っていました。東大のM1のときにオランダのデルフト工科大学との共同ワークショップに参加する機会があり、オランダと日本両国で計一ヶ月程滞在してオランダ人学生たちと過ごしたのが楽しくて、次は留学かなという気持ちが強くなりました。留学先を検討しているときに、たまたま東大がETH(スイス連邦工科大学チューリヒ校)と交換留学制度を始めるという話を聞き、英語も通じそうで日本のコンセプト重視の建築教育とは違うスイス建築の質実剛健なところが学べるのではないかと思い、M2の夏から1年間休学して留学しました。

—— ETHではどんなことに取り組まれたんですか?

小室——  これまで自分が卒業設計やスタジオ課題をやりきってそこからいろいろと学んだ上で、今の自分が海外で何が出来るのか試してみたいという思いがあったので、ETHでは設計スタジオ課題に集中してしっかり設計に取り組みました。あまりやったことのないような課題をとろうと思い、1つ目は都市スケールのランドスケープ系の課題、2つ目はETHの建築教育を牽引するスイス人建築家ピーター・メルクリによるクラシックな旧市街にアプローチする課題を選びました。

ETH留学はスタジオ旅行や学生寮生活なども楽しくて、できるだけ長く滞在したいと思い、修士論文を日本に帰国せずにスイスに滞在しながら書けないものかと千葉先生に相談しました。千葉先生の寛容で柔軟なスタンスと、ETHのスタジオバーゼルという都市リサーチスタジオのアシスタントが研究を指導してくれることになったおかげで、スイスでの研究を東大の修士論文として発表するという無茶をさせてもらうことができました。そこでのリサーチを元に英語で本論をまとめ、帰国して梗概を日本語でまとめて発表するというギリギリのスケジュールでしたが、何とか無事に卒業させてもらえました。

—— ETH留学が終わってからの進路はどう考えていましたか?

小室——  学生としてだけでなく社会人としても引き続きスイスで働いてみたかったのですが、修士論文であまり余裕がなかったので、一番興味のあったヘルツォーク&ド・ムーロン(HdM)にだけ応募して面接をして一旦帰国しました。卒業後にHdMが無理でもきっとどこかで働けるだろうという程度の見通しでスイスに戻りました。1ヶ月程ETHのアシスタントの事務所で働いていると、運よくHdMから採用通知がきて、働かせてもらうことになりました。

ヘルツォーク&ド・ムーロンで責任ある立場に

—— その後、HdMに約9年間在籍された中で、転機となったプロジェクトを教えてください

小室——  2012 年のロンドンでのサーペンタインギャラリーパビリオンのプロジェクトが、少人数ですが初めてチームの中心となれた機会で、それ以降、チームリーダー的な役割を任せてもらえる機会が多くなりました。それにつれ、個人だけでなくチーム全体のアウトプットをまとめたり、施主やコンサルタントなどとの対外的なやり取りにも関わるようになりました。

その後担当したアメリカでのコンペに勝ち、2か月に1回くらいアメリカに通うようになりました。語学に自信があるわけでもないのに、親くらいの年齢の英語ネイティブの方々と対峙して事務所の代表の一人として打ち合わせないといけなかったので、かなりビビりましたがおかげで度胸はついたと思います。模型を作ったりデザインを考えたりするだけでなく、チームマネジメントや対外的なコミュニケーションに関わり始めると、その面白さや難しさも知り、仕事のやりがいも増しました。数年で入れ替わるスタッフも多いので、自分も初めは3年程度いられればと思っていたのですが、実際はその4年目以降あたりからより面白くなり、もっと長く所属して責任のある立場でしっかりプロジェクトをまわしていきたいと思うようになりました。

アメリカのプロジェクトが途中で止まり、メルボルンのフリンダース駅のコンペなどを担当していたのですが、ちょうどそのタイミングでM+(香港に2020年開業予定の、6万平米以上の延床面積を持つ巨大美術館)のプロジェクトが始まり、自分もチームに加わることになりました。これまでにいくつか美術館プロジェクトに関わっていたり、初期チーム内では 当時自分が事務所の古株だったこともあり、なんとなくチームをリードする流れになり、それが発展して最終的には30人ほどのチームをまとめる立場になっていました。スケジュールや予算も厳しいアジア最大の美術館であり、これだけ経験のある事務所にとっても大きなチャレンジとなるようなプロジェクトで、そんな状況で経験値不足の自分がどう貢献できるのか、目の前に必死な日々でしたが、HdM時代で最も大変で、最も成長し、最も充実した期間だったと思います。当時自分はチームの平均年齢くらいの歳だったこともあり、上に立ってマネジメントするというよりは、自分も手を動かしながら周りも見るキャプテンのような立ち位置で、なんとか全体を前に進められないかと模索していました。それぞれに強みを持ったチームメンバーをどう活かし、如何にチーム全体で成果を出すかを今まで以上に意識するようになったと思います。

プロジェクトが実施設計に進んだ段階でチームの一部が香港に移ることになり、かつてのアメリカのプロジェクトも再開しそうでしたが、自分としても事務所としてもプロジェクト全体に詳しい自分が現地でM+を継続する方が良い、自分としてもそうしたい、という判断から、香港事務所に異動することになりました。

建設中のM+(撮影:小室舞)

—— アメリカに渡るという選択肢もあったのですね香港を選んだ理由とは?

小室——  初期から関わったという意味ではアメリカのプロジェクトに愛着もあり、都市としても魅力的でしたが、いちアジア人としてM+というアジア最大の美術館の設計に初期から継続的に関われるという価値は自分には特別なものでした。これからの美術館、これからの公共空間を目指すM+ではデザインの可能性を追求する余地も大きく、設計プロセスの中で館長やキュレーターだけでなく様々な美術館関係者と打ち合わせができるということもとても刺激的で、住む場所以前にこんなプロジェクトに責任ある立場で取り組めるという素晴らしい機会をなるべく全うしたいという思いでした。

—— 京大で表現を、東大でリサーチ的な鍛錬を積んだ後、ETHやHdMでの活動を通して手法や考え方はどう変化しましたか?

小室——  場所のコンテクストや各プロジェクトの持つ固有性などから建築デザインを練り上げていくHdMのアプローチにはとても共感しています。また、内外に関係者が多い場合は特に、何故そのデザインになるのかをきちんと説明できるストーリーがないと淘汰されてしまうので、きちんと考えを他者と共有することに対して自覚的になりました。おそらく、まだ自覚的になりきれていないだけで、他にもHdMの考え方や設計手法に影響されている部分は多々あると思います。高松先生、千葉先生、ETH、HdMと、はたから見るとかなりユニークな組み合わせではあると思いますが、自分の中ではそれぞれの素晴らしい部分からいい影響を受けられた気がしています。

—— HdMでは、たくさんのスタッフと協働されたようですが、プロジェクトはどのような方法でまとめていかれたのですか?

小室——  基本的にプロジェクト単位のチームで動くので、適材適所で個々それぞれがよいアウトプットを出して協働しながら、チームとしての成果を目指します。上下関係で押しつけたり、怒って鍛えたりというのではなく、各々自立したプロフェッショナルとして対等に協働するという感覚があると思います。中途採用者も多く、いい意味で大人の関係だと思うのですが、逆に自分から積極的に学び行動していかないと、受動的に待っていても誰も鍛えてくれないところもあります。働き始めてからはとにかく今何ができるのか考え能動的に行動して何でも吸収しようとするようになったと思います。自分は日本での社会人経験がないので、日本で先輩や上司に怒られ鍛えられるという話を聞くと、むしろそれは貴重なことだと思ってしまいます。

※ヘルツォーク&ド・ムーロン時代のことは『Traverese』への寄稿[Traverse:現在進行形バーゼル建築奮闘記]も参照。

いざ独立! 目指すはホワイト経営?

—— 2017年に香港と日本を拠点に独立されていますが、そのきっかけは?

小室——  香港では、バーゼルで進めてきた設計をローカルアーキテクトやエンジニアとやりとりしながら実施設計に落とし込み、サイン計画や家具といった細部のデザインを進め、約3年ほどM+に関わりました。現場はまだまだ動いていましたが、一通りのデザイン面全てに関わりきったという段階で一つの節目を感じました。これまでHdMでは様々なプロジェクトのデザイン段階に関わらせてもらい、M+はある意味その集大成に感じるほどでしたが、自分の次のステップを考えたときに、やはり今自分が身につけたいのは現場監理だったりプロジェクト全体のマネジメントだったり、今のHdMでの自分の環境では経験しにくい部分だったので、独立を考えるようになりました。

—— Twitter(@komumai_KOMPAS)でM+関係のことを今でも発信していますが、HdMを辞めても香港で独立することでM+に関わっていきたいという気持ちがあったのでしょうか。

小室——  HdMを辞めた以上自分はもう無関係ではあるのですが、とはいえ設計に関わった身でありかつ一人のサポーターとして、自分が役立てるなら役立ちたいし見届けたいみたいな気持ちはありますね。M+では館長やキュレーターやコンサベーター(保存・修復担当専門職員)といったスタッフとも打ち合わせていたのですが、M+関係者には自分と同じようにM+のために香港に移住してきたという人も多く、香港という場所に世界から多くの人々が集まって皆で新しい美術館を創り出そうとしている輪の一部になれたのはすごく楽しかったので、もう少し近くにいたいとは思います。

—— 現在どんなお仕事が動いてますか?

小室——  100㎡ほどのリノベーション案件と450㎡ほどの新築二つほどが日本で動いています。他にはコンセプトだけをつくる話がちょこちょこあります。香港にも1つプロジェクトがありますが、日本の仕事の方が多くなっています。

—— 今後のビジョンをお聞かせください。

小室——  まず第一にいいデザインをしながらホワイト経営をすることです(笑)。HdMは、労働環境の面ですごくしっかりしていました。十分なお給料が出て、残業すると効率が悪いと怒られる、というような。そういう環境にいさせてもらった以上なるべくその環境を目指したいなとは思っていて、オープンデスクなどの名目でただ働きをさせるくらいなら事務所を廃業するくらいの覚悟は持っています。やっぱり世界標準で考えると、いい労働環境がないといい人材は集まらないと思うんですよね。とはいえ、建築業界はすごく大変で実際なかなか難しいのですが、HdMで経験した、世界各地から集まった優秀な人材とインターナショナルなプロジェクトに取り組む、という環境が将来的な理想ではあります。 主な拠点はM+のオープン頃までは香港に置きたいとは思っていますが、それ以降は未定です。まずはきちんとみんなに給料を払いながら良い作品を作り、事務所として生き延びることが目標ですね。

決定は自己責任で

—— お話を聞いていて、小室さんが大事にしていることは、自分に決定権があることなのではないかと思いました。

小室—— そうですね。基本すべては自己責任だと思っていて、人からアドバイスをもらうときも、それはすごくありがたいことなのですが、結局それを聞く聞かないは最終的には自分の責任で、たとえもしそれで失敗してもアドバイスくれた人を恨まず自分を責めるしかないとは思っています。何に対しても後で後悔したくないという気持ちは強いので、今しかできないことをやる、失敗してもなんとかなるから覚悟を決めてやる、という意識はあると思います。

—— HdMで働くことになったときも、そこで働くことを目標にするのではなく、スイスに渡って何かをすることを目標にされていました。HdMで働くことを目標にしてしまうと決定権が自分になくなりますが、 最終的に自分にとって達成感のある何かを成し遂げることを目標にすれば進路を自分で決められる、ということですね。おそらく自分に自信があるからできることなのだと思います。自分に自信がないと、外に評価を求めてしまいますから。

小室—— 正直自分に自信があるという感覚は全然ないのですが、これはきっと外的な評価より内的な自己評価が重きを持っているからかもしれません。このスタンスは、体育会系だった高校時代に培われたメンタリティかもしれないです。出身の茨木高校では水球をしていて、結構強かったんですよ。水球は高校から始めたのですが、部活漬けの毎日を過ごして最後の夏にはチームで全国3位になって個人でもU-20日本代表候補にも選ばれたりもしました。 スポーツは結果がすべてなので、人より劣っていたり人よりいい結果を出したければそれ以上に努力して結果を出すしかありません。高校のプールに「継続は力なり」と貼られていたのですが、まさにそうだと思いました。

高3で少し結果も出たし実際水球自体も好きだったのですが、この頃から醒めている部分もあって、自分の将来性を冷静に考えると水球で生きていくのは難しいし、大学行って何か別のことをしようという気になっていました。U-20の候補合宿に選ばれた時、合宿がセンター試験直前だったために断る旨をコーチに伝えたところ、コーチから「お前もっと夢を見ろよ」と言われました(笑)。普通は高校生が夢を見て、先生がもっと現実を見ろと諌める構図なのに、その時は逆でしたね。なんかその頃からわりと醒めた目で状況を俯瞰してた節はあるかと思います。

—— アスリート気質だなと思いました。他人の評価ではなく自分自身で評価の軸を持つことで、岐路に立った時自分で決断できるんですね。

小室—— 将来こうしようと人生の指針を早くに決めている人も多いじゃないですか。でも、私はぼんやりとしか先を見ておらず、あまり早くから道を決めたくないというか、目の前の現実主義というか、今の程度の自分の知識と経験と感覚で10年後のことを決めてたまるか、と思ってしまうんですよ。10年後にはきっと知識も経験も感覚も変わっていると思うので、将来のことは、そのときの自分の判断に任せたいと思っています。ゴールを定めなければそれを外れることもないし、何かがダメならそうじゃない道に舵を切ればいいし、とりあえずそのときどきに自分がいいと思う方向に進んでいれば、それなりのどこかにたどり着けるんじゃないか程度に思っています。

(2019年2月24日 京都・マールカフェにて 聞き手:小見山陽介、平塚 桂)